少年革命家YouTuber・・・人には失敗する自由がある

何の疑問も抱かずに学校に通う同級生がロボットに見えたという理由で不登校宣言した少年YouTuberが話題になっています。
絶賛する大人もいますが、苦言派の方が多いようです。

苦言を呈する側が、学校には行くべきだとする理由をいくつかあげています。

通常のルートから外れた道を歩く人には大きなリスクがある(=将来の選択肢が狭まってしまう)こと。

学校教育で学ぶ知識が欠落したまま大人になってしまうと、就職や就業等で大きな不利益を受けること。

などなどです。

確かに、苦言派の意見には正しい面があって、いちいち納得できることばかりです。

この少年の進路に安易に賛成する大人は無責任だという意見もあります。

一理あると思います。

 

とはいっても、苦言派に敢えて反論します。

経験者なり大人の目から見て明らかに「そりゃ失敗するよ」と見えるような進路や生き方であっても、最終的に、人には自分で決めた道を歩む権利があると思うのですね。

一言でいうと、人間にはチャレンジして失敗する自由があるということです。

そうでなければ、ほとんどが失敗なり挫折して終わるような、お笑いタレントやミュージシャンを目指すとか、夢を追いかけるという決断が許されないことになってしまいます。

学力が足りない人が東大を狙おうが、司法試験のような死屍累々の難関資格試験を受けようが、最終的には個人の自由だと思うのです。

甲子園などの高校スポーツだって、頂点に立つ学校以外は敗北することが運命づけられています。

したがって、やりたいという人には、やらせてあげればいいんじゃないかと個人的には思います。

未成熟な児童の決断をどこまで尊重するかには、いろいろ意見がありうるところでしょうが、親権者であるお父さんが賛同しているわけですし、外野があれこれいうことではありません。

もっとも、思い通りにいかない確率もそれなりに高いわけですから、備えのために、例えば、親御さんが自ら勉強を教えたり、あるいは、家庭教師をつけるなりして、社会人に必須な学力を身につけられるようにフォローしてあげて欲しいと(他人ながら勝手に)願っておきます。

 

人には自分で決断して失敗する自由があるということに関連して、眞子内親王殿下のご婚約についてのご意思をどこまで反対できるのかという問題がありますね。

お相手となっている方は、いろいろと問題を抱えていると言われており、国民による総バッシング状態の様相を呈しています。

内親王殿下のご意志を応援するかは、個々の人が勝手に決めればいいのですし、結婚してうまくいくかどうかと言われれば、正直、「うーん・・・、あの人はやめておいた方が・・・」という気持ちがないでもないですが、最終的には、内親王殿下のご意思を尊重申し上げるしかないと思っています。

なぜなら、人には自分で決断して失敗する自由があるからです。


ブラック企業は多々あれど、どんなひどい職場であっても従業員が結婚相手を決める自由まで奪うようなところは存在しません。

どんな高い報酬を払っている職場であっても、結婚相手を決める自由までも奪うようなところはありません。

内親王殿下に対しては、皇族としてのお立場や国民感情をお考え下さいという苦言もありますが、結局、生身の人間である方々に皇族の地位に就いていただく以上、国民の思い通りになるとは限らないのです。

 

障がい者への嫌悪感を正当化する人々

こんなツイートが話題になっていました。

2万人近くのフォロワーがいる、いわゆるアルファツイッタラーです。

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障がい者への嫌悪感を持つことは生理的なものだから抑圧すべきではない、というのがこの方の意見のようです。

しかし、こうした不謹慎な意見自体が、多くの人にとって強烈な不快感を与えるものですからね。

内心でとどめておくことはできないものでしょうか。

わざわざ口に出す必要はあるんですかね。

 

私は先ほど、トイレで大便をしてきたばかりです。

とても臭くて、我ながら不快です。

他人だったら、もっと不快なのではないでしょうか。

仮に私が自分の汚物を周りの人の目の前に突き付けたとしたら、どうでしょう。

まあ、当然怒られますよね。

 

この人の「障がい者への嫌悪感」という感覚自体が、「汚物」みたいなものです。

 

そういった感覚は、恥じて、自分の内心にだけとどめておけばいいわけです。

それなのにこの人は、自分の汚らしい感覚をわざわざ周囲にまき散らしたり、目の前に突き付けているから怒られるわけです。

自分の感覚を素直な感想などと開き直るのではなく、他人に不快感を与えるという意味では汚物と同じだと自覚したうえで、他人の目に触れさせないというのがまともな人間の配慮なのではないでしょうか。

はっきり言ってこの人物の言動は、動物レベルだと思います。

 

追伸

うんこや動物に失礼な文章でした。

この人のつぶやきはうんこや動物以下です。

 

詐欺とまでは言えなくても・・・ぼったくりコンサルタントに騙されない

Amazonプライムで、適正価格500円ぐらいの商品を1万円ぐらいで堂々と出品している業者がいる。
あれって、いったい誰が買うのだろうと不思議に思うのだが、一定数、購入してしまう人たちがいるのだろう。

でなければそういった業者は廃れているはずである。

こういったぼったくりにお金を払うという現象は、物を買う場合だけに当てはまるのではない。

無形のサービス、専門的知識やアドバイスを売り物にしているコンサルタントに依頼する場合にも言えることである。

一部のコンサルタントなどでも、途方もないぼったくり価格を出している。

それに疑問を感じることなく大金を支払う人たちがいる。

管轄の役所に聞きに行けばタダで教えてくれるようなアドバイスに数十万円を支払う人たちがいるのである。

まずは概略だけでも自分で調べてから専門家に話を聞こうとする人、複数から見積もりを取るような人、相場をある程度知っている人であれば騙されることはない。

当然、彼らは情報弱者を狙うわけである。

いくつかのパターンがあるので列記しておく。

 

出費に対してシビアではない富裕層を狙う
富裕層は良いものを見て目が肥えているので物品系であれば、そうそうと騙されないのだろうが、専門性の高いサービスや無形のコンサルタントみたいなものになると、いくら金持ちでも判断が難しくなる。
服装、マナー、言葉遣いだったり雰囲気がガッツリ整っていたりすると、だまされる。
その手の営業マンも富裕層から疑われないような、育ちがいい人だったりするのかもしれない。
富裕層以外でも、お金を出すことに抵抗がない層がいるので、そういう人を上手に選別するノウハウを持っていることが多い。


緊急性が高い状況に置かれた人を狙う
大きなトラブルに遭遇した人をターゲットにする。
そういう人はたいてい焦ってわらをもつかむ状況になっているので、まともな判断ができない。
すぐに助言を得て安心したいわけだ。
24時間対応にして深夜でも連絡できるようにして、すぐに駆け付けてアドバイスをすれば、かなり高額なコンサルタント料を支払って依頼をしてくれる。

 

自分で最後まで責任を持たず相談に応える(=見通しを伝える)だけ
コンサル自身が責任を持って最後までやり遂げるわけではないので、かなり楽観的な見通しを相談者に語る。
相談者は、甘い見通しを伝えられて喜んだり安心する。
気持ちがハイになっているので、高めのコンサルタント料金を抵抗なく支払う。
しかし、その見通しの通りやり遂げるのは極めて大変だし根気が必要なのである。
それならまだしも、現実に実行することがそもそも不可能な場合もある。

 

パッケージングが完璧
費用をかけた分厚い美しい印刷物が、高級そうなファイルに綴じてある。
目に見えないサービスにお金を支払うことに抵抗ある人は多いが、そういう人でも、こういう重量感のある物体を見ると、満足してしまう。
しかし、支払わされる数十万、あるいは百万円を超えるコンサルタント料からみれば、印刷物やファイルの価格など、微々たるものである。
その上、膨大な資料も、多くは他のお客さんの場合と共通部分が多い使いまわしで、一度作ってしまえば、それほどコストはかからない。

 

ではどうすればいいのか

騙されないためには、自分自身でも相応に勉強をしたり、同様のサービスを利用したことがある知人から情報を得るべきであろう。
ネット上の情報は、かなり汚染されているので、自分自身で質の高い情報に触れて勉強しなければならない。

依頼をするにしても、初面談で即断はしないことである。

 

追伸

「業者名 詐欺」とか、「業者名 評判」、「業者名 高い」でGoogle検索すると何かわかる場合もあります。

大人バカッター?

授業をしないことを大々的に歌って躍進してきた大学受験生用の塾がある。

初めて聞いたときは、「授業をしないことを強みってどういうこと?」「大学受験の予備校とか塾っていい授業を提供することに存在意義があるんじゃないの?」と仰天したが、いわゆる個別指導塾のことである。

授業を提供しない代わりに、参考書や問題集を自分でやらせて、それをチューターがアシストするのである。

今は受験参考書もわかりやすく進化しているし、授業を聞かなくても自力で本を読んだり問題を解いたりして学習を進められるのであれば、こういうやり方も十分にありだろう。

講義をいくら聞いても実際に問題演習したりしないと得点力はつかない。

また、自力で本を読んでわかるレベルの受験生なら、授業よりも本を読む方がはやいからだ。

なのでこの塾の基本的なコンセプトは支持できる。

で、授業をしないことのほかに、この塾が躍進したと思われる理由がもう一つある。

塾長からして、やり手の青年実業家という感じで、表に出ているチューターたちも若々しいのだ。
おじさんっぽさが皆無である。

今の若い人は、自分に近い年代の人と交流を持ちたがる傾向が強い。

なので、こういった若々しいイメージも、受講生を集めるうえで、非常にプラスに働いているのだろう。

ただ、若々しいのはいいのだが、ここのスタッフたちのノリが実に危なっかしい。

最近、この塾の若手チューターたちがやっているYoutubeのチャンネルが物議をかもしている。

京大出身のスタッフが法政大学の入学式にわざわざ赴いて、「君たち、本当は法政大学が第一志望じゃなかったんだよね?」などと茶化した動画が炎上し始めている。

スタッフは、大学受験生の合格をアシストする立場にいる受験産業に席を置いているにもかかわらず、晴れの舞台である入学式に赴いた新入生をバカにしているのだ。

そんなことをやらかす理由は、精神年齢が低いこともあるのかもしれないが、他にも、そういうノリが一部の大学受験生や高校生にウケていることもあるのだろう。

そのぐらいの年齢の子供たちの中には、「●●大学はいまいち」みたいなことをいうと、「本音を言ってくれた!」と支持しちゃう人が結構いるようなのである。

ただ、いい大人がそういう子どもたちのノリに感化されてバカなことをやっちゃうってのは、店舗で不潔行為をしてSNSを大炎上させたバカッターとかバイトテロをやっている人たちと変わらないんじゃないの?

バイトテロとかバカッターだって、友達から笑いを取りたいというアホな動機でやっちゃったりするわけだからね。

学歴で人を煽るのが大好きな、一部の幼く未熟な受験生たちからの支持を得るために、いい歳をした大人がせっせと悪ふざけをしちゃっているのだ。

こういう大人を見て育った子供たちの中から、今後も次々とバカッターたちが出てくるんでしょうね。

物議をかもしたyoutubeのチャンネルの方は、個別指導塾とは直接の関係はないようだけど、放置していたら●●塾の企業イメージが著しく悪化すると思いますよ。

タレント議員も弁護士議員もいらない

タレント議員や元スポーツ選手議員が役に立たないことはだいぶ知られるようになってきました。

少し前まで有権者は、「一つの世界で一流になった人は、他の世界でも一流に違いない」みたいなフワッとしたいい加減な判断で、タレント議員に清き一票を投じ、その後、タレント議員のやらかしを見て後悔するということを繰り返してきました。

芸能活動やスポーツと政治は異質ですから、一方での活動での成果が他方で活きるなんてことはそうそうあるわけではなく、それどころか、こういったタレント議員の多くは、政治家としては平均レベルにも全く及ばないことが多いのです。

そもそも、「あなた絶対に政治に興味ないよね?」と言いたくなるような人が立候補する動機が全く分かりません。

というわけで、タレント議員はもういりません。

しかし、弁護士出身の政治家には、期待する人がまだまだ多いようです。

「頭も切れそうだし相手との交渉や法律という世の中のルールを熟知しているのであれば政治だってできるだろう」ぐらいに思っている人が多いのでしょう。

大間違いです。

結論から言えば、法律と政治は全然違います。

例えば、野球のルールとジャッジに詳しいアンパイアが監督になれば名采配を発揮して常勝チームが作れるでしょうか?

そんなわけはありませんよね。

業界の慣習やルールに詳しい法務部員が社長になって経営をしたら、その会社は大躍進することができるでしょうか?

もちろん、そんなわけはありません。

なぜなら、野球の采配も経営も、クリエイティブな部分が非常に大きいからです。

政治も同じでしょう。

政治家には、しっかりとしたビジョンを示し、実現していくというクリエイティビティが要求されます。

政治は、弁護士が得意とするような、法律という一定のアルゴリズムに従った事件の処理とは、全然違うわけです。

タレント議員の場合と同様に、弁護士が議員になったとしても、そのスキルを活かせるどころか、かえって政治家の平均レベルにすら達しないのではないでしょうか。

法律の知識を政治に生かすにしても、専門知識を生かした政策スタッフやアドバイザーじゃダメなんでしょうか。

なぜ、政治家というプレイヤーになりたがるのでしょう。


弁護士が政治家に向いていない理由として、最近あらわになったことがもう一つあります。

性犯罪ではないかと疑われる事件で無罪判決が立て続けに起こりました。

父親が立場を利用して未成年の娘と性交をしたり、お酒で意識が無くなっている状態の女性の同意を得ることなく性交した社長が、罪に問われることなく、次々と無罪になっています。

世論は立て続けに出た無罪判決に激高しました。

そして、裁判官に対して激しい批判をしました。

弁護士は、法律に照らして判断したのだから裁判官を責めることはお門違いだと反論しました。

確かに、裁判に国民感情をダイレクトに反映させてしまうと問題があるので、ここまでは良いとしましょう。

問題なのは、一部の弁護士は、判決を批判をする国民が「無知」で「未熟」であるかのような物言いをしたのです。


政治家だったら、どう対処すべきでしょうか。

近代国家というものは、もちろん憲法や法律に縛られていますから、(仮に崇高な正義感情や弱者への同情心であっても)感情ですべてを決めることはできません。

しかし、まともな政治家であれば、法律でくみ取れなかった感情を、全部バッサリと「未熟」と切って捨てることはしないでしょう。

なぜなら、法律とは永久不変のルールではなく、変えることができるからです。

憲法や人権に抵触しないように慎重さを発揮しなければなりませんが、国民からの問題提起を受け止め、実態を調査して、「どうすれば同様の事態を防ぐことができるのだろう?」「なにか手段はないだろうか?」と必死に頭をひねって知恵を出そうと努力するのではないでしょうか。

国民からの意見に耳を傾け、一緒に考えていくべきではないでしょうか。

しかし、今回の件で意見表明する弁護士の多くには、そういった姿勢すらも見られないのです。

バッサリと、「未熟」と切り捨てるだけです。

ビジネスの世界では、「それはできません」と即答するのは無能な人間とされています。

政治の世界でも同じでしょう。

できないことを安易に約束してはいけませんが、それでも「制約の中でも、何かできないだろうか。その制約は絶対的なものなのか」真剣に問いつつ打開策を探す努力くらいはしてくれてもいいのではないでしょうか。

法律家の仕事は、本質的に、決まったルールに照らしてジャッジしていくという後ろ向きなものです。

弁護士は、政治家には全く向いていないと思います。

 

追伸

タレントにしても弁護士にしても、本業の価値を否定しているわけではありません。

タレントも弁護士も、政治家には全く向いていないというだけです。

上野千鶴子さんによる東大入学式での祝辞について思うこと

上野千鶴子名誉教授がよりによって東大の入学式で、
「君らが受験勉強に打ち込めたのは恵まれた環境のおかげや」
「努力したくてもできない人たちのことも考えろや」
みたいなことを(もうすこし上品な言い方で)述べて、賞賛と物議をかもしているようです。

新入生の親御さんの中には、かなり切れていらっしゃる方も多かったようです。

まあ、無理もないでしょう。
自分の子供の晴れの舞台を祝ってもらえると思ってわざわざ来ているわけですから、斜め上の祝辞にお怒りになるのも仕方がありません。

一方、「東大生どもよ。調子に乗るな。環境に感謝しなさい。」などと溜飲を下げたりドヤっているイタい人たちも結構います。

とはいえ、上野さんの祝辞は、名演説だと思います。

おそらく、何十年たっても忘れられることなく、機会があるたびに何度も引用され続けることでしょう。

最初に祝辞の内容を知って思ったのは、
「さすが東大だ。その辺の凡百の大学とは違うわ。
そして、そんな素晴らしいところに一生懸命努力して入れた人たちも素晴らしい。
うらやましい。
行けるものなら東大に行きたかった。」
というものです。

たいてい、行事とか儀式での祝辞って、建前ばかりでクソつまらないもんです。
平凡な単語、退屈な表現で、毒にも薬にもならない無益な言葉を連ねていく。
そういうもんです。

上野さんがしたような挑発的な挨拶は、普通の大学の新入生たちに向けてやったら、ブーイングが起きるはずです。

「祝辞でいうことじゃないだろう。」という反応が大半を占めるでしょう。

それが、(私を含めた)凡人の感性というものです。
普通の人たちというものは、自分たちのお祝い事に関しては、平凡で中身がなくても、あたりさわりのない祝辞の方をありがたがるのです。

「君たちは今、新たな一歩を踏み出した」とかなんとか、テキトーなことを言ってもらっていれば十分に嬉しいわけです。

ごく普通の人たちの集団では、不謹慎なことを言ったりするやつがいると胸ぐらをつかまれたり殴られたりします。
中二病全開な言動をしたりオタクくさいことをするやつがいると気持ち悪いと蔑まれたりします。

しかし、東大は違います。

知的な人たちが集まる空間というものは、許容度が高いのです。
まさに東大という感じですね。

あの祝辞はありきたりの緩い祝辞とは全然違いましたね。
明らかに異質な言葉をぶっこんできた。
もちろん、大学のお墨付きのもとにです。

相手が、弱小独裁国家のお殿様や親から利権を受け継いだ田舎の権力者みたいな似非エリートだったら、すごいすごいと持ち上げておけばいいわけです。
持ち上げておかなければ、自分の命にかかわります。

しかし、相手が東大生であるからこそ、真摯な言葉で語りたい、言わなければいけないと上野さんは思ったのでしょう。
聞き手の知性に期待しているからこそ、ああいった祝辞が成り立つわけです。

上野千鶴子氏が東大生の知性を信頼して、大人扱いしている証拠だと思います。

 

以上は、東大とは何の関係もない個人の感想です。

 

追伸

その後R25がおこなったアンケート調査では、東大の新入生たちの間でもこの祝辞をいいと評価する声の方が多かったようですね。

さすがです。

もうそんなにまじめに働かなくてもいいじゃないですか

最近政府は、外国人労働者を広く受け入れる政策を打ち出しています。

日本国民の多くは、仕事を外国人に取られてしまうのではないか、あるいは、治安が悪化するのではないかとの強い不安を持っています。

そこは、あまり心配しなくていいと思っています。

というのは、今後は、日本に外国人労働者は来てくれなくなるからです。

なぜ来てくれないのかというと、日本では、もらうお金の割に労働がきついからです。

もらうお金の割に労働がきつい理由は、日本のお客さんは世界一厳しいからです。

日本のお客さんが厳しい理由は、そのお客さんも自分の職場では厳しい労働をしているからです。

自分が職場で厳しい労働をしていると、自分が客として訪れた際にも、相手に厳格な接客や対応を要求します。

自分の職場でクレーマー気味のお客さんに必死になって神対応して、帰りに立ち寄ったコンビニで、今度は店員の態度に対して文句をつけたりするわけです。

悪循環です。

果たして、こういった状況が望ましいのか。

100円しか払わないお客さんに2000円のものを売るバカなお店はありません。

しかし、100円しかお金を支払わないお客さんに対しても、多大な労力を当たり前のように投入したりします。

100円の商品しか買わないお客さんからの文句や問い合わせでも、こじれてしまったような場合にはクレームを防ぐために何時間も時給1000円を超える従業員が複数で対応したりするわけです。

もちろんそのお客さん対応に関しては赤字ですから、赤字分を他の文句を言わないお客さんにまで転嫁するか、あるいは従業員の時給分を超えた頑張りで埋め合わせます。

結局、従業員は、時給が安い仕事でも笑顔で感じよく、しかも走り回って対応をしなければいけなくなるわけです。

おかげで我々は、サービスを利用する際にはとても気持ちがいい思いをできますが、自分の職場では給料の割には厳しい労働を強いられています。

飲食店などは、海外でも日本と時給が変わらないようですが、忙しくないときには、従業員同士がぺちゃくちゃおしゃべりしたりしています。

これが日本だと、お客さんがいないときにも、とにかく手を動かすということで、何か作業を探して動きますからね。

全然違うわけです。

なんでこんな風になったのか。

昭和の頃だったら、もっとまったり接客している商店や、おばちゃんが座りながら煙草を売っていたお店とかありましたよね。

今は無駄に労働の強度があがっているわけです。


こういう状況で、今後、日本に外国人がたくさん来てくれるでしょうか。

どう考えても、日本で働くのはバカくさいと思うはずです。

すでに日本は経済大国でもなんでもなくなりつつありますから、ほかの国よりもずっと高い賃金が支払えるわけでもありません。


よく考えれば、我々も、そんなにまじめに働かなくてもいいじゃないですかね。

給料分だけまったり働けば十分じゃないですか。


無駄に頑張らなくなれば仕事は楽になります。

その代わり、お客さんにもある程度我慢をさせることになるので、我々がお客の立場になった時には、受けるサービスの質やレベルが低下するというデメリットもあります。

ただ、我々の人生で、職場で仕事に従事する時間と、サービスを利用する時間、どちらの方が多いかといえば、圧倒的に前者ですよね。

前者がいまよりももっと楽になれば、空いた時間や労力をもっと自分の人生を豊かにすることに使えると思うのですけどね。