有能な営業マンは保守の方々に憲法の良さを売り込めるのか
あらゆる法律の上に立つ、強力なルールです。
しかし、日本国憲法は国民全員が異論なく尊重しているというわけではありません。
いわゆるリベラル側からは法であることを超えた人類の普遍真理であるかのように尊ばれてはいるものの、保守側からは自分たちを殴りつけるこん棒のような扱いを受けていることが多いです。
極端な場合、日本で起きる諸悪の根源という扱いをする人までいます。
ここでは、多かれ少なかれ憲法アレルギーを持っている保守っぽい人たちに憲法の良さをどうやれば売り込めるのかを考えてみたいです。
ここで「保守っぽい人たち」といったのは、ガチの右側の方々には、どんな有能な営業マンでも憲法を売り込むのは難しいと思ったからです。
体質的に牛乳をどうしても受け付けない人に無理やり牛乳を飲ませたら、これはもう虐待です。
他人に危害を加えないのであれば国民が憲法を認めない自由も憲法で保障されています。
したがって、そういう方々に無理に憲法を認めさせる必要もないですし、誰もそんな権限を持っていません。
さて、保守の方々に憲法の良さをどう伝えるのかについて、数々の秀逸なたとえ話や分かりやすい説明がリベラル側からなされていますね。
なるほどと感心するものが多いです。
ただ、リベラル側の説明では、国家(あるいは今の政権)を基本的に悪いものととらえて説明しているものが多い傾向があります。
国家を猛獣、憲法を檻に例えるとかね。
保守の方々の多くは国家(あるいは今の政権)と自分のアイデンティティを重ねている人が多いので、そのような説明だと、話の冒頭で保守の人たちの心を閉ざしてしまう可能性が高くなります。
セールスでいえば、セールストークを始めて15秒で「結構です。間に合っています。」と拒絶され、その後に何を話そうが聞いてもらえないという状況です。
また、憲法の説明をする場合に、憲法の背後にある人権思想などについて熱く語るのもNGでしょう。
立憲主義、人権思想が偉大な人類の英知の結晶の一つであることは否定しませんが、そういった思想にどこまで感銘するかは個人差がありますし、人権思想への思い入れが強すぎるあまりに陶酔的におすすめしてしまうようなことがあると、同じ感覚を共有できない人たちからは、かえって拒絶反応を起こされてしまいます。
むしろ、憲法を広く売り込むのであれば、ニュートラルで有用なツールとして説明する方がいいでしょう。
もしも憲法がなかったら、どうなってしまうのでしょう。
将来、今の自民党とは違う系統の新興勢力が政権をとったような場合を想像してもらいましょう。
ソフトなリベラルではなくもっと原理主義的な革命左翼でもいいでしょうし、我々が通常想像するような保守の範囲を逸脱した極右政党でもいいでしょう。
そういった勢力が政権に就き、憲法を無視して現在の共謀罪を足掛かりに改正して、もっと強力な権限を国家に与えたらどうなるでしょう。
そうなれば自分たちに反対する人間を逮捕し放題です。
現在も共謀罪がありますが、現実には自民党政権が自制してそれを使わないという状態です。
しかし今の自民党とは無関係な、本当にやばい人たちが政権を取った場合はどうでしょう。
「共謀罪が存在するのだから、それを改正したり、フル活用して何が悪い」と開き直り、使うことに躊躇しないかもしれないですね。
日本でも民主主義や人権面で多少問題がある制度が残っていたりしますが、それでもそこそこ上手くいってるのは、なんだかんだと、今まで政権を担ってきた側(主に自民党)にある程度のバランス感覚があったからでしょう。
日本では自民党一党支配の期間が長く、個々の問題はいろいろあったにせよ、大惨事というほどの事態は起きていませんからね。
このように、「ある日突然、自分たちに敵意を持った連中が政権をとるかもしれない」という不安と無縁になってしまうと、民主主義や人権に対しての感覚がどんどん鈍感になってしまいます。
憲法の重要性を意識しなくなっていくのです。
だが、何かのきっかけで、そういったバランス感覚のかけらもない人たちが政権を取る可能性だって存在するわけですね。
そういった時のために、憲法で原理原則をガチガチに縛っておかないと危なっかしくて仕方がないのです。
国家はおおむね我々国民にとって頼りになる存在なのですが、指導者、統治者がはずれだった場合に暴走することがあります。
そういうときに憲法が守ってくれるわけでです。
日常的な例に置き換えてみましょう。
私たちが特定の薬剤を服用し続けていたとします。
その薬剤がなければ健康を維持できない、あるいは命を失いかないぐらい重要だったとします。
もちろん、医学薬学の進歩に感謝もしていますし、その薬剤がありがたいと思っています。
しかし、どんなにその薬にお世話になっていても、その薬の「副作用」については気になるのが普通でしょう。
「副作用」が起きないように量を調整したり、ほかの薬と組み合わせるなどの工夫が必要になります。
もう一つ例を出します。
近隣を流れる川のおかげでその地域では農業が発達しているとします。
その川は有用だし、地域にとってはとてもありがたい存在です。
だからといって、増水でその川が氾濫して洪水になったときのことを全く考えなくていいものなのか。
当然、堤防ぐらいは築くわけですね。
堤防を築いたからといって、川を悪者にしているわけでもないし、川の有用性を否定しているわけではないですね。
日本国民にとって日本という国家が頼りになって、自分たちを守ってくれる存在であることはその通りです。
しかし、そうであったしても、国家が暴走する可能性など、一切の「副作用」や「洪水」のケースをまったく考えないという姿勢が正しいことといえるのでしょうか。
「君の話には現実味がないし、可能性が低い仮定の話をされても切実に感じないね。」という声も聞こえてきそうです。
しかし、現実には交通事故を起こす可能性が低くても賠償保険には入りますし、頑健で病気なんて考えられないという人だって生命保険や疾病保険ぐらいには入りますよね。
めったに起こらないことに備えるのは、起きた時のダメージがあまりにも大きいからです。
もちろん、50歳をすぎても全く運動せずに脂っこい肉を大量にとり、お酒もたばこも無制限に嗜んでも平気な豪傑もいますから、考え方は人それぞれでしょう。
ただ、「万が一に備えて、国家暴走の心配をする人がいるのも一理ある」とか「実感はわかないけど頭では一応理解できる」ぐらいには思っていただけるのではないでしょうか?
幸福度No.1とされるブータンは、政治的には独裁国家といってもいいです。
それでも、国民の多くが幸福を感じているのは、幸いなことに、名君による統治が続いているからでしょう。
名君の場合には、独裁国家であろうが憲法による人権保障がなかろうが、おおむね国家の運営はうまくいくわけです。
しかし、ブータンの先代の国王は、在任中、周囲の反対を押し切ってでも、自らの強力な王権を少しずつ制限していったそうです。
国家運営はいずれは国民に委ねていくべきであるという方針を支持していたわけです。
ところで、この記事のタイトルは「有能な営業マンは保守の方々に憲法の良さを売り込めるのか」となっています。
「営業マンを名乗っている割にこのブログ主、売り込みがうまいとは全然思えない」という手厳しい声が聞こえてきそうです。
すみません。
白状すると、私は有能な営業マンどころか、営業マンですらないのです。
どなたか、有能な営業の方に憲法の売り込みと普及に興味をもっていただけるとありがたいのですが。
「保育士や介護士の給与が低い理由はスキルがないから」とドヤ顔でいう残念な人たち
保育士や介護士の給与を上げなければいけないと提言されるようになって久しいです。
こういう話が出ると、したり顔で「スキルがないんだから給与が低くても仕方がない」みたいなことを言う人たちがわいてきます。
定番の反応です。
陳腐です。
脳内にそう反応する単純なアルゴリズムが入っているのかと疑いたくなるほどです。
こういう意見を目にするたびに「いい年して社会のことを知らなかったり経済学とか勉強していないと恥をかくんだな」と痛感させられます。
仮にこの手の意見が正しいとするならば、例えば保育業界でも、
誰でもできるスキルしか持っていない→希少性がないのでいくらでも人が集まる→給与が低く抑えられる
というミクロ経済学の教科書に書いてあるような流れをたどるはずです。
しかし、現実には、保育業界は万年人手不足で、募集をしても人が全然集まりません。
業界では、マッチングサイトやら人材派遣会社などをフル活用してでも保育士を集めようとしますが、それでも人は集まりません。
「そこまで人が足りないのであれば給与を上げればいいではないか?」と思うかもしれません。
しかし、そんな単純な話ではありません。
保育業界に流れるお金は、子持ち共働きの子育て世帯です。
多くの場合、そういった世帯では大金は出せません。
その結果、保育士の給与の原資が出せないのです。
構造的に、補助金に頼るしかありません。
国家なり地方公共団体の予算です。
予算については、多くの場合縦割りで、慣習重視、前例踏襲です。
近年、世間では「保育士の給与をもっと上げて欲しい」という声が増えています。
しかし、大幅に予算が増えることはなかなかありません。
保守の中では福祉の実現に対して比較的熱心で政治的リーダーシップを強く発揮する安倍政権の下ですら、事態は大きくは改善されていません。
ここで、少し話題を変えてみます。
医師の給与が高いのは、なぜでしょう。
「保育士の給与が低いのはスキルがないから」という意見をいう人だったら「医学部が難関で医師のスキルが高いから」とか言いそうです。
ワンパターンですね。
しかし、実際にはそんな単純ではありません。
医師の給与が高いのは、医療の国家予算が莫大だからです。
司法試験に合格した弁護士も、医学部+国家試験突破した医師に勝るとも劣らない難関をクリアしています。
医師同様にスキルは高いはずです。
しかし、平均収入は医師よりもずっと低いです。
医療の予算に比べて、司法への予算がずっと少ないからです。
医療保険制度で医療費の多くが賄われる医師とは違って、弁護士の収入の多くは依頼者に支払ってもらわないといけないので、医師ほどは収入が上がらないわけです。
要は、弁護士の場合、給与の原資が少ないわけです。
このあたりのことは、多少でも新聞を読んだり、高校生の公民程度の知識があれば容易に想像できそうなものです。
ただ、多くの日本人は、歴史地理の教養は豊かでも、公民の勉強はあまり好きじゃないんですよね。
公民の勉強には、歴史や地理ほどのロマンが感じられないからでしょうか。
なお、仕事の給与額がある程度構造上決まるとしても、能力が高い順に高い給与が取れる職種につくはずだという反論もありうるところです。
確かにそういう面もあるでしょうが、しかし、全部をその視点から決めるけるのは無理があります(往々にして、そういう断定が好きな人たちがいますが)。
例えば、保育士や介護士などの職種は、平均よりもサイコパス率が低いといわれています。
他者に優しくすることに喜びを感じる人の率が高いのです。
そういったことに想像が及ぶ感性が欠落していると、「収入が低い人は能力が低いから仕方なくその職に就いている」といった「簡単なアルゴリズム思考」に陥ってしまうわけですね。
ちなみに、高い収入を得ていても世間の憧れとなっているような人たちからこの手の発言が出てくることは、あまりありません。
どちらかというと、この手の発言をするのは、高い収入を得てはいても、虚業扱いされたりして世間からは賛否両論というポジションにいる人たちが多いという印象です。
そういう人たちは、「収入や待遇がそれほど良いわけではないが多くの人たちから感謝されている人たち」を批判したがります。
そのあたりの屈折した心理を分析していくと面白いかもしれません。
自覚なく搾取される意識高い系
多くの業界では、公益活動というのがあります。
労働の対価を伴わないか、あるいは、労働量に見合わない対価しか出ない仕事です。
完全に無償というわけではないので、ボランティアとは違いますが、公益活動にはボランティアに近い面があります。
なんでそんな仕事をやるのかというと、「善意」や「やりがい」だったりするわけです。
自分にはどうも社会奉仕やボランティア精神というものが欠落しているようで、きちんとした給与が出ないと、モチベーションが上がりません。
仕事の内容も、不都合が出ない程度、最低ラインを多少クリアする程度(要は、お客さんから「安かったし、まあこんなもんか」と思われる程度)のクオリティになってしまいます。
ただ、そういった公益活動でも心から生き生きして精力を費やしてやっている人たちが結構いるんですよね。
他に収入源があったり、生活に困らないのであれば、そういう生き方もありなんじゃないかと思います。
私も、そういった人たちにはとてもかないませんが、自分が興味を持てる内容の仕事だったり、とても感じのいいお客さんだったり、感謝の気持ちをストレートに示してくれるようなお客さんだったりすると、ほとんど収入にならない場合でも、力を入れて時間を忘れるぐらい仕事に熱中することも結構あります。
そういう幸運な条件が揃うと、ほぼ、娯楽に近い喜びを得られます。
収入度外視で、やりがいを持って頑張れるわけです。
もっとも、周囲には、私よりもシビアな人たちがいます。
お金にならないことには一切の労力を割かないという人たちです。
ここで特に話題にしたいのが、コストを考えろとか、本当に今の生活でいいんですか?というのが口癖の、意識の高い系の人たちです。
だけど、そういう人たちの中にも、自分では気が付かないところで、無償に近い貢献活動をしている人がいたりするんですよね。
よくわからんセミナーや、コンテンツにお金を支払う。
とにかく使う。
「金持ちになる方法」みたいなセミナーに100万円払って、食事はカップラーメンで済ませたり、自販機の飲料のお金も惜しむ。
そういう人は決まって、「将来に向けた自己投資だよ」というけど、何年自己投資をしているのやら。
また、いつまで自己投資を続けるのでしょうね。
コンテンツって言っても、どうやったら儲かるコンテンツが作れるかというねずみ講みたいな内容だったりするわけです。
ブログの内容が、「儲かるブログ」だったりすると笑えますよね。
ブログでする話題がブログってのが滑稽です。
カメラをたくさん買っても、カメラの写真ばかりを撮るようなものです。
ちゃんと意味のある内容を伴っていればいいのですが、「ブロガーが教えるブログでの儲け方」みたいな内容で、意識高い系の人たちをつって熱心にお布施させるようなしょうもないものばかりです。
その手の意識高い系の人たちは、新興宗教にはまっている人たちと同じで、自分は真理を知っているという態度でやたらマウントを取ってきます。
そんな怪しげで自己啓発チックなものにお金使うのなら、法律や会計、語学のような実体のあるスキルを勉強したり、哲学や世界史、物理の勉強でもやって教養を身に着ける方が100倍いいです。
まあ、ボランティア精神旺盛な人たちがお金にならなくても公益活動を生き生きしているのと同じで、意識高い系の人たちの方も、怪しげなコンテンツをたくさん買ってインフルエンサーとやらにお布施しているだけで全然稼げていないのに生き生きしていたりするので、私のような部外者が何を言っても余計なお世話なのかもしれませんが。
わが子からの暴力と警察の介入
元事務次官が家庭内暴力を起こす自分の息子を刺殺するという事件がありました。
わが子に手をかけざるをえなかったお父さんがどんなに絶望的だったかを思うと、言葉はありません。
また、安易に「他に何か手段はなかったのか。どんなことがあっても他人だろうが我が子だろうが、人を殺してはダメだ。」と批判することもできないと思っています。
家族から日常的な暴力を受けている人は、極限的な状況に置かれていると思うからです。
ただ、あえて言わせてください。
「息子からの暴力に苦しむ親に、殺人の他に採りうる手段が全くない」というのは間違いです。
他に手段はあります。
まず、例えわが子から親に対する暴力であっても、きちんと診断書をとって警察に相談して被害届を出すなどすれば、暴行なり傷害罪で逮捕してくれます。
確かに、よほど大きなけがでない限り、一発で実刑になることはありません。
しかし、執行猶予がついて釈放された後、再び、親に暴力をふるったら、実刑にもなりますし、服役もします。
「家庭内の問題だから警察は全くとりあってくれない」などということはありません。
「警察は何か起きないと動かない」とよく言われます。
その通りです。
しかし、わが子から暴力を受けている時点で、「何か起きている」と言えるわけです。
プライバシーの問題がありますのでここで細かく書くことはしませんが、私の周囲にもそういうご家庭はありました。
現実に、そういう実例を知っています。
そのご家庭では、ご両親ともに、「血のつながった我が子だろうと、甘い対応はしない。」と腹をくくっておられました。
こうやって親が腹をくくっている場合、警察は頼りになります。
多くの場合、子供の態度が一時的に優しくなったり反省の態度などを示すと、親の方が「もういいのではないか?」「もう一度子供を信じてみよう」という感じで、途中でグダグダになってしまうのです。
もちろん、警察に相談に行くこと自体が高いハードルですし、恥ずかしいという思いもあるでしょう。
しかし、どうしようもないぐらい追い詰められたとしたら、やはり、逮捕してもらうしかないのではないでしょうか。
刃物をもってわが子と対峙する覚悟、殺人者になってしまう覚悟があれば、警察に逮捕してもらう決意の方がハードルが低いはずです。
もちろん、言うは易しで、自分が同じ立場になった場合に、スムーズに警察に相談し、証拠などを準備して逮捕してもらうことができるか?情に流されてなあなあになってしまわないのか?などと言われれば、「自分なら絶対にできる」とまでは言えません。
ただ、刃物を手にする前に、そういう手段もあるということを、頭の片隅に置いといても損はないと思います。
できれば、マスコミも、コメンテーターのくだらない議論を垂れ流すぐらいだったあら、そうやってわが子の暴力から逃れることができた実例を取り上げたり、あるいは、役に立つ対処法をきちんと取材して伝えるべきだと思うのです。
追伸・警察に家族を逮捕させる方法を報道させるのがはばかられるのであれば、家族の暴力から逃れるための夜逃げの仕方とかを教えてもいいですね。
素人コメンテーターの「殺したお父さんの気持ちもわかる」とか「一人で死ね」みたいな一人語りを聞いても何の役にも立ちませんからね。
鳥山明さんがフランスから勲章を受章したことに対するリアクションについて
ドラゴンボールで有名な漫画家の鳥山明さんがフランスから勲章を受章しました。
大変に嬉しいことです。
ドラゴンボールが世界中の幅広い年代で大変な支持を受けていることは異論がないでしょう。
鳥山先生は日本にとっての誇りだと思っている人も多いでしょう(わたしもです)。
しっかりと評価して勲章をくださったフランスについては、さすがですとしか言いようがない。
ところで、今回の授与について、日本側のリアクションを見ていると、うーん・・・ってのがあるんですよね。
例を挙げると
鳥山明は勲章なんて貰わなくても偉大
フランスの勲章の方がかえって鳥山明から権威をもらったようなもの
みたいな反応です。
確かに、鳥山明さんは、画力、構成力、セリフのセンス、どれをとっても天才としか言いようがありません。
だけど、
鳥山明>>>>フランス
って構図を作ってドヤるのはどうなのよ?と思うのです。
少し、考えてみてください。
日本政府は、ドラゴンボールの連載終了時に、鳥山明さんに国民栄誉賞を検討しましたか?
個人的には、鳥山明さんは国民栄誉賞をとってもおかしくないと思っていますが、打診はおろか、議論すらありませんでした。
漫画などの娯楽、サブカルに対して素直に賞賛することへの心理的なバリヤーを、日本政府は乗り越えることができないが、フランス政府は乗り越えることができたということです。
ということは、
鳥山明を理解したフランス政府>>>理解できなかった日本政府(ひいては日本国民)
という構図が成立します。
鳥山明という天才を正当に評価し報いることができなかった自分たちを恥じるべきではないでしょうか。
というか、国民栄誉賞は、スポーツ選手ばかりに偏り過ぎなんですよ。
なんといっても、あの、手塚治虫ですらとれませんでしたからね。
タメ口を使って得することはひとつもない
タメ口を使う人は悪い意味で目立ってしまう
タメ口というのは、ご存知の通り、敬語を使わない話し方のことです。
昭和のころと比べて、平成も末期になると、敬語を使う人が増えたなあと痛感します。
昔は、本当に横柄な人が多かったですね。
昭和のころは、飲食店でパチンと指を鳴らして、「君ぃ!」と偉そうに店員を呼びつけるお客が結構いたものです。
営業マンですら、取引先にタメ口を使うことが珍しくありませんでした。
それが、平成も末期になると様変わりして、相手が年少者であろうが、あまり親しくない人に対しては、敬語を使うことがデフォルトになりました。
最近では、自分がお客の立場のときでも、店員に対して敬語を使う人が増えましたね。
いいことだと思います。
今や、タメ口で話す人は珍しくなっています。
そのため、タメ口を使う人がいると、悪い意味で目立ってしまうのです。
タメ口が気になるときとならないとき
YouTubeを見ていても、タメ口で語る配信者がときどきいます。
不思議なことに、タメ口でも全然気にならない配信者と、見るのが嫌になってしまうタメ口配信者がいます。
後者の配信者の動画は、非常に興味がある内容を扱っていても、クリックする気になりません。
タメ口が気にならない場合と気になってしまう場合、何が違うのか考えてみました。
一つ気が付いたことがあります。
アドリブ的にライブ感満載で話している配信者の場合、タメ口を使っていてもあまり気にならないのです。
そういった動画は、親しい知り合いの話を聞いているような感覚で見ることができるからだと思います。
一方、手堅く台本的に話している配信者がタメ口って、なんというか、聴いている側としても非常に抵抗がありますね。
大して親しくもない人からタメ口で話しかけられている場合に感じる、あの不快感です。
その不快感を味わいたくないがために、そのチャンネルを視聴することがほとんどなくなってしまうのです。
YouTubeは見てもらってナンボでしょうから、本当に損をしていると思います。
日常生活でも、タメ口で話しかけているのに相手に不快感を与えない人がいます。
一方で、タメ口で話しかけて相手をイラっとさせてしまう人もいます。
何が違うのでしょうか。
愛嬌とか人間力みたいなものが関係しているのかもしれません。
気前がよいか、面倒見がよいかなどの事情が関係しているのかもしれません。
ケチなのに横柄な人って、最悪ですからね。
いずれにしても、「人にタメ口で話しかけても不快感を与えない」というのは、一つの才能だと思います。
自分にそういった才能があるとは限りませんから、タメ口は使わない方が無難です。
自分にはそういう才能があると思っていても、実は単なる思い込みに過ぎない場合もあります。
タメ口で話しかけられた人がニコニコ笑顔でいても、その人の本心は分かりません。
本当は、イライラしているのかもしれません。
言葉遣いが原因で、人から避けられてしまうなんて、大損としか言いようがないですよね。
店員に対してもタメ口は避けるべき
お客が店員にタメ口で話すことは、社会的にある程度は大目に見られています。
立場が変わり、店員がお客の立場であなたの商品やサービスの提供を受ける場面では、逆に、あなたにタメ口で話しかける可能性もあります。
お客とサービス提供者、立場によって言葉が変わるだけなので、公平といえば公平なのかもしれません。
ただ、そうはいっても、やはりタメ口は使うべきではありません。
店員さんにも丁寧に話す方が絶対に好かれるし、得をします。
店員さんも人間ですから、自分が敬意をもって接してもらっているかどうかで当然、相手に対する思いは変わってきます。
手に入りにくい商品を注文するようなときなどは、丁寧に接していれば、なんとか入手してくれるかもしれません。
売れ残りそうな商品が残っているようなときは、サービスで余分につけてくれるかもしれません。
感じよくしていれば、店員さんもあなたのために多少の無理をしてくれたり、融通を聞かせてくれるかもしれません(もちろん、店員さんが自主的にやってくれるのではなくてこちらから強く要求するようなことをするとクレーマーになってしまいますが・・・)。
丁寧に話す人は好かれる
以前の勤め先に、ちょい悪っぽい風貌なのに、人と話すときは仮に自分よりも年下でも、例外なく敬語を使い、「~さん」とつける男性がいました。
20歳ぐらい年下の男の子に対しても、「~君」ではなく、「~さん」と呼ぶのです。
その人はみんなから、めちゃくちゃ好かれていました。
その人が過労で倒れてしまって、仕事に穴をあけそうになった時でも、職場にいる人間が誰も不満を漏らさず、それどころか、率先して、競い合うように、その人の仕事をカンペキにフォローしたのです。
彼が完治して職場に復帰するとの知らせをうけたときは、みんな、大喜びでした。
やばり、丁寧に話す人は好かれるのです。
逆に、横柄な人は、損をします。
もちろん、横柄だったり偉そうでも好かれる人はいます。
ただ、そういう人は、人の好感を得るにあたって、「横柄な態度」という大きなハンデを人間力で克服しているわけです。
逆に言えば、礼儀正しい態度だったら、もっともっと好かれているはずです。
大事なことなのでもう一度強調したいと思います。
相手が誰であれ、タメ口を使って得することは一つもありません。
優しい人は損をするのか得をするのか・・・建前抜きの本音の話
他人に優しい人、いわゆる利他的な人がいます。
こういう人は、自分を犠牲にしてでも他人のために尽くしり、そこまでではしなくても、PTAの役員のような嫌な仕事を引き受けて黙々と頑張ったりします。
一般的に利他的な人は、他人のことを信用する傾向があります。
一方で、自分のことしか考えない人、いわゆる利己的な人がいます。
そういう人は面倒なことは人に押し付け、人から何かをもらったり親切を受けることはしても、人に何かを与えるとか損をするようなことはしません。
利己的な人にとっては、家族やごく親しい人たちを除いては、基本的には他人は信頼できる相手ではなく、競争相手です。
では、利他的な人と利己的な人、トータルではどちらの方が成功を収めるのでしょうか。
精神的な満足とか心の幸せみたいな見方や建前を一切除外して、単純に得られる収入だったり地位だけで見た場合、利他的な人と利己的な人、どちらのタイプの方が勝ち組になるのでしょう。
海外には、こういった問題について学問的に研究している人たちがいます。
したがって、この問題については、ある程度信ぴょう性のある答えがあります。
結論から言うと、利己的な人は、勝ち組にはなれません。
利己的な人が高い収入や地位を得る可能性は低いのです。
勝ち組を見ると、案外、利他的な優しい人が多いのです。
ただ、ここが残念なところでもあるのですが、収入が非常に低く苦しい層、こういう言い方すると申し訳ないのですが、いわゆる負け組にも、利他的な優しい人が多いのです。
つまり、勝ち組と負け組の双方を、優しい人が占めるわけです。
一方、利己的な人は、勝ち組になりにくい一方で、負け組にもなりにくいのです。
利己的な人は大きく失敗することもなく、真ん中あたりのポジションにとどまることが多いということです。
まとめると、利他的な人は、勝ち組か負け組になる。
一方、利己的な人は、勝ち組にも負け組にもならない。
では、利他的な優しい人の中で、勝ち組と負け組に分かれるポイントはどこにあるのでしょうか。
これも結論から言ってしまうと、勝ち組になるのは、新しく人間関係を築くときに、他人に対して過剰な警戒心や敵対心を持つことなく、優しくするところからスタートするけれど、いったん信用できないことがわかった相手に対しては、距離を置くことができる冷静さを持っているタイプです。
一方、負け組というか、悲惨なことになってしまうのは、何をされても人にどこまでも優しくするようなタイプです。
裏切られてもすぐに許してしまうようなタイプ、恋愛関係で言えば、だめんずという人たちですね。
勝ち組に見られる態度、基本的には人に優しくするところから入り、裏切られたら距離を置くという態度は、理にかなっているのです。
人間社会では、どんな能力が高い人でも共同作業を拒絶して個人プレーに徹していては大きな成功を収められません。また、取引でも人間関係を築くときでも、強い不信感から入ると、ものすごいコストがかかってしまうのです。
ここが、他人を競争相手とみなして不信感を持つことが多い利己的な人が、なかなか勝ち組になれない理由です。
さすがに、良く知らない人に大金を貸したり保証人になったり、あまりにもリスクが大きな事業をすぐに始めるようなことはお勧めできませんが、勝ち組になるような人は、基本的には、他人に過剰な警戒心をもったりせずに、優しくするところから入ります。
もっとも、際限なく優しくしていたら、自分勝手な人たちに利用され貪り食われるだけです。
そういった自分勝手な人と親密な関係を続けることはリスクにしかなりません。
したがって、相手がそういう勝手な人間だと判明した場合には、躊躇なく人間関係を切るのです。
ここまで読んで、次のような感想を持たれたかもしれません。
利己的な人は、周りを全部競争相手として、信用しない。
この方針は頭を使わないので簡単。
また、負け組の利他的な人は、周りの人全部を信用し続ける。
この方針も頭を使わないので簡単。
しかし、勝ち組の利他的な人は、他人を信用したり、距離を置いたりする。
だから、勝ち組になるためには、他人を見る目や人間観察力が重要ではないか?
人間観察力がない人は、勝ち組になれないのではないか。
確かに、一発で人間の本性を見抜くことができれば、それに越したことはありません。
ただ、高度な人間観察力がなくても、人間関係について以下のような一定のルールに従って行動することで、だいぶ勝ち組の行動に近づくことができます。
ルール1
他人に対して、最初から大きな期待をしない
(いきなり大金を課したり、保証人になったりはしない)
ルール2
他人に対して警戒しすぎずに優しく接する
利己的な人にとって基本的に他人は信用できない競争相手ですから、ルール2のような態度が取れません。
その結果、自分とごくごく親しい人たちだけのタコツボに入って孤立してしまいます。
一方、負け組系の利他的な人は、最初から他人に大きな期待をして簡単に人を信用します。
なのでルール1のような態度が取れません。
そして、次のルールも大切です。
ルール3
一度裏切った相手や、信用できない人物であることが判明した場合には距離を置く。
利己的な人は最初から他人を懐に入れませんから、ルール3については心配ないですね。
一方、負け組系の利他的な人は、一度裏切られてもなかなか人間関係を切る決断ができないので、ずるずると利用され続けます。
ルール3のような態度が取れないのです。
ちなみに私はどのタイプかと言うと、基本的には利己的だが、気まぐれに人を信用しすぎて、痛い目にあっても裏切られても人間関係を切れない負け組タイプという面も持ち合わせています。
俺、駄目じゃん・・・