人間以外の動物は無益な殺生をしない?はホント?

無益な殺生をするのは人間だけ?

子どものころ、母がドヤ顔で私にいった。

無益な殺生をするのは人間だけなんだよ。

動物は、意味もなく他の動物の命を奪ったりしないんだよ。

母はいつもテレビ番組か何かからの受け売りを自分の意見のように私に話すので、私の方でも、母がドヤるのを、いつも白々しい気持ちで聞いていた。

まったく、かわいくない子供である。

ただ、「無益な殺生をするのは人間だけである」という話については、疑うこともなく、なるほどそうなのか、と感心した。

しかし、この話、どうやら間違っているようなのである。

他の動物も楽しみのために命を奪う

進化論やら生態学の本が一時期マイブームになり、あれこれと読みふけった時期がある。

それらを読んでいると、どうやら、動物もストレス解消のために他の動物を殺すようだ。

捕食などの理由ではなく、純粋に殺したいから殺すこともある。

ただし、動物の世界では人間の世界と違う事情が働く。

殺されそうになると、動物も死ぬ気で反撃をする。

人間の場合と違って、躊躇なく反撃してくる。

その結果、面白半分に殺そうとした動物の方が逆に相手からの逆襲を受けて怪我をするリスクを負うのだ。

自然界では、些細な怪我が命取りにつながる。

例えば、足をねんざしてうまく走れなくなれば、ほかの動物に食われたり、逆に他の動物を狩ることができなくなり、死に直結する。

なので、面白半分に殺すにしても、リスクを伴う結果、一定程度、ブレーキがかかる。

動物は、自分の命をつなぐために他の動物を殺さなければならないような場合、例えば、捕食するという目的の場合であっても、できる限りリスクを避けようとする。

まして、自分の命をつなぐという目的とは遠い、楽しみのための殺しの場合には、さらに慎重になるのは当然だ。

だから、動物は無益な殺生をしないように見えているだけの話なのだ。

動物にも、他の生き物を殺したいという衝動自体は存在するようだ。

なぜ誤った教えが広まったのか

では、なぜ「人間以外の動物は無益な殺生をしない」という誤った教えが広まったのか。

すぐに思いつく理由としては、戦争や犯罪、その他の暴力をしないように人間を啓蒙するためだろう。

つまり、「動物が無益な殺生をするのかどうか」ではなく、「人間は殺し合いばかりして愚かな生き物だ。反省しなくては。」というところに話の力点があるのだ。

この他にも、「人間以外の動物は無益な殺生をしない」という話には、隠されたもう一つの意図がある。

それは、「人間は他の動物とは別種の存在なのだ」ということを強調したいということ。

他の動物は、空腹を満たすといった原始的かつベーシックな行動原理しかない。

実に単純な存在だ。

一方、人間は、そういった即物的な利害を超えた動機を持ちうる。

人間は、ただ命を長らえるためだけに生きているのではない、哲学的な存在なのだ。

そう言いたいために、あえて人間以外の他の動物を持ち上げる形で遠回しに人間を称賛しているのだ。

これは、先進国の人たちが、未開の部族生活をしている人たちを「素朴で素晴らしい」「文明に汚染されていない」と上から評価するのに近い感覚かもしれない。

実際には人間は動物に近い

しかし、脳科学の本などを読んでいると、人間も動物と大差ない生き物のようだ。

犬や猫、鳥などを飼ったことがある人ならわかると思うが、彼らも嫉妬したり、人間に強い愛情を伝えたりして、感情面では、かなり我々に近い部分が多い。

他の個体が喜ぶと自分もうれしくなったり、他の個体が苦しんでいると自分自身も苦しんだりするような共感力が動物にも備わっている。

また、動物も、集団の中にいると強いストレスを感じる場合があるらしいが、集団から離れて単独で生きていくと、ほかの動物から捕食される危険が上がったりする。

そのため、仕方なく集団の中にいたりするらしい。

まるで、会社を辞めたいけれども生きるために会社に残る人間のようだ。

人間の脳は、動物的な脳の上に、高度な推論や理性を働かせる人間独自の脳が覆いかぶさるという構造になっているので、動物の脳とかなりの部分、共通性があるのだ。

そうすると、もはや人間を特別扱いすることはできない。

人間は他の動物と比べて特別に残酷な存在ということはないが、特別に高尚な存在ということもないのだ。