虐待親対策と体罰禁止の閣議決定について思うこと

親による子供に対する体罰の禁止が閣議決定された。

最近、親による子供の虐待事件、それも死亡事件が数多く報道されているが、そういった事態に対応するための政策の一環である。

子どもの虐待死事件が起こるたびに、世間は怒りの声に満ち溢れる。

暴力を加え子どもを死に至らしめた親への怒りだったり、有効な対応ができなかった児童相談所への怒り、有効な対策を打てない政治に対する怒り、などなどである。

児童相談所と警察の連携を強化して立ち入り権限を与えることも対策の一つとして提言されている。

ただ、そういった対策の前提として、根本的には、親が子供に暴力をふるうことがダメなんだという社会的な共通認識を持つことが必要なのだろう。


シン・ゴジラという映画の中で、ゴジラ撃退のために自衛隊を出動させるにあたり、官僚たちが鳥獣駆除に関する法律など、自衛隊出動のよりどころとなるルールがないか、目を皿のようにして探しているシーンがあった。

同様に、児童相談所が虐待親に立ち向かい、虐待されている疑いのある子供を保護するためにも、そういったよりどころとなるルールは必要なのである。

もっとも、今回の閣議決定について、ネット等の反応をみるとネガティブな声が多い。

一切の体罰がダメということになると、子どもをしつけることができなくなってしまうではないかという声だ。

子どもの教育に体罰を使っていいかどうか、議論はありうるところであるが、しつけのための体罰が使えなくなるのはどうなの?というのは、もっともな疑問であろう。

そのあたりは、日本の刑事政策がお得意にしているやり方、「基本的には些細なことでも全部犯罪に当たるようにしておいて、警察の担当者の判断でお目こぼしをしていく」という方法で対応するつもりなのだろう。

そもそも、しつけのための体罰と子どもへの虐待に当たる暴力の区別は難しい。
事件後の取り調べや裁判など、事件が起きた後に振り返ってみる場合であっても、判断に迷うケースは多いのだ。

逆上した顔をして子供を取り返しに来た父親を目の前にした児童相談所の職員が、即時に「虐待」なのか「しつけ」なのか微妙な判断をしたうえで、毅然と父親を追い返したり、警察の応援を求めるのは現実的ではないだろう。

まずは、「体罰イコール禁止」という建前を盾に子供の安全を確保したうえで父親には引き取ってもらい、後から時間をかけて調査をすればいいのだ。

そういった意味でも、ゆげしまは今回の閣議決定については支持したい。

だが、この点について、世間はブレブレである。

あれだけ子どもの虐待死に怒っていた人たちも、今回の閣議決定には困惑する。

暴力に対するスタンスもそうだ。
「暴力は絶対ダメ」という建前を貫こうというやせ我慢が世間には足りない。

おととしの当時の横綱日馬富士による貴ノ岩に対する暴行傷害事件の際に、日馬富士を糾弾した人が多かった。

貴ノ岩が先輩である日馬富士に対して失礼な態度をとったという情報があったにもかかわらず、「どんなことがあっても暴力は絶対にダメ」という世論が支配的だった。

しかし、その後、生徒が全く指導者の言うことを聞かなかったり、逆に大人を挑発するような事件、子供が大人をバカにしたような事件があったときには、体罰を行った大人を擁護する声が圧倒した。

「どんなことがあっても暴力は絶対にダメ」という建前はどこかへ行ってしまっていた。

正直、生徒に挑発されて教師が怒りのあまり手を出してしまったという報道に接すると、私にも「大人をバカにしやがって!生意気なガキが!」という衝動が生じる。
手を出してしまった先生に対して、同情する気持ちもある。

しかし、そうであっても、建前とかルールを守るというのは、そういった衝動を抑え込み、やせ我慢をすることであろう。

その時その時の感情や衝動に振り回されて、言っていることがブレブレになってしまったら、建前やルールなんて維持できなくなってしまうと思うのですよ。