大学入試での調査書の活用には反対

自称進学校と呼ばれる高校では、教師の権限が非常に強く、どのような教材を使ってどのように勉強するのかについて、高校生に自由が与えられないという話を以前書いた。

受験生の立場に立って考えれば、合格体験記を読んだり先輩のアドバイスを聞きながら自分なりに勉強計画を練るという一番の楽しみを味わえないのはかなりつらい。
もちろん、肝心な勉強の方はおろそかな受験参考書マニアや合格体験記のヘビーコレクターになってしまう受験生や、自分の合格へのルートをあれこれ妄想することばかり楽しんで地道な勉強を嫌う受験生も多いので、そんなところであれこれ悩んだり考えるよりも、与えられた課題を全力でこなすことに集中することが大事という意見を全面的に否定するつもりはない。

ただ、それは、個々の受験生が自分の責任において選択すればいいだけの話である。
学校の先生のアドバイスに全面的に従いたい生徒はそうすればいい。
しかし、それ以外の選択肢を奪ってしまうのは反対である。

受験生が誰かに勉強の計画を練って欲しいと考えているとしても、学校の先生以外にも信頼できる指導者がいる場合もあるだろう。
評判のいい塾や予備校を自分で調べて指導を受けたいと思う生徒もたくさんいるだろう。
しかし、自称進学校では、学校から与えられた教材や、学校の先生の推奨とは別の勉強方法を採る受験生は嫌われてしまうことが多いのだ。

確かに、学校の先生に無礼な態度をとったり失礼なことをいう高校生などは論外である。
しかし、受験生が、自分で自分の勉強のプランを立てて実行していくことは、先生や学校をないがしろにすることにはつながらない。
高校生といえば、ある程度は、大人である。
また、受験勉強は点数という結果だけでシビアに判断される。
そこに不純物はない。
受験勉強を通して、生徒は自分で調べ、自分で計画を立て、自分の責任で実行するという重要な経験ができるのである。

学校の先生とはいえ、そんな機会を奪ってしまう権限はないはずである。

部活動であれば集団行動をとることも重要であるが、受験勉強は基本的には自分自身との戦いなのである。
勉強の結果は全部自分に返ってくるものであり、最後は自分で責任をとるしかない。

なので、本当にタフな強い受験生なら、先生の言うことなどガン無視して受験勉強にいそしめばよいのである。

とはいえ、最近、世の中の動きがきな臭くなってきた。

大学入試改革のことである。

受験勉強を一発勝負とせずにプロセス重視にし、入試というペーパーテストの点数だけではなく、課外活動、調査書など幅広い視野で受験生を評価しようというものだ。

今までは大学入試ではろくに顧みられることがなかった「調査書」をこれからは活用しようというのだ。

これが意味するのは、自称進学校の強権教師に、生徒に対する生殺与奪の権利を与えるということである。
学校の先生のいうことを聞かない生徒は、内申点を低くつけられてしまう。
入学試験で高い得点をとったとしても、不合格とされてしまうのである。

自分なりに創意工夫して各科目を理解し克服した生徒よりも、こつこつと定期テストや課題をこなした生徒が上位に立つ。

体験として知っている人も多いと思うが、定期テストでいくら点数が良くても、模擬試験で上位に立つとは限らない。
その科目をよく理解していなくても、教科書や課題を繰り返すことで、限られた範囲の記憶が一定時間保持されるので、定期テストではいい点数を取れる場合がある。
しかし、それは本当の実力とは限らないので、範囲が広い模擬試験ではいい点数は取れないし、応用も効かない。

「頭がよく器用な生徒ばかりが評価される風潮よりも日日まじめにコツコツ頑張る生徒を評価したい」という声もあるだろう。
しかし、裏を返せば、「学校の先生のイエスマンのような生徒」は評価しても、「学校の先生の言うことをうのみにせずに自分で創意工夫する生徒」は評価しないともいえる。

それでいいのだろうか。
今まで何となく続いてきた慣習にばかりしたがい、自分の頭で考えられない人たちばかりの組織は、軒並み衰退している。

恐ろしく効率が悪いことばかりがまかり通る。
そして、誰が見ても間違っていることが明らかであっても、上司や組織ににらまれたくないので、誰一人文句を言わず、一緒に沈没していく。

ただでさえ同調圧力が強すぎるこの国で、こんな制度を認めてしまって、未来はあるのだろうか。