能力の差なんてキニシナイ!

難関試験や難関大学に合格するのに一番大切なのは、努力、地頭、環境、どれが決定的な意味を持つのだろうか。
よく議論になる。

特に納得する成果が出せなかった人は、環境が一番大切だと言いがちである。
裏を返せば、環境さえ整っていれば、自分にもチャンスがあったと言いたいわけだ。

私見では、やはり、環境はかなり影響すると思う。

実際、有名大学に行かなかった人の中にも頭がいい人はゴロゴロいる。

塾や予備校に行かせてもらえたか、勉強に向いた環境であるかどうか、これらも大切だが、何より、周囲の人たちがどういった価値観を持っているかが重要だ。
勉強する人がバカされる環境なのか、あるいは、勉強すると一目置かれる環境なのか、どちらの環境にいるかで、結果は全然違うものになるだろう。

努力が大切という人も多い。
これも正論だろう。
子供の頃は全然勉強しないでもテストの点数がいつも満点だったという人は多いが、どんなに頭が良くても大学の商学部の講義を聞いただけの人が公認会計士試験には受からない。
大学入試も、知能指数がずば抜けて高い人が手ぶらで受かるような試験ではない。
年齢が高くなればなるほど、努力の重要性のウェイトは上がっていく。

では、持って生まれた能力の差は重要ではないのか?
受験勉強にも才能があるのではないか?

私も、身内に無償で、あるいは、アルバイトで何人もの受験生に教えてきた経験がある。
その経験から正直にいうと、受験勉強に対する能力の差はかなりある。

新しく学ぶことに対する習得のスピードについて、個人差はかなり大きいというのが本音だ。

しかし、これは絶望を意味しない。
能力の差なんぞ、全く気にすることはないと思っている。

仮に、ある事項について、飲み込みが早い人は15分、遅い人は2時間かかったとしよう。
しかし、それがどうしたというのだろう。
例えばある公式を勉強しているとする。
多少時間がかかっても、理解して使えるようになってしまえば、同じである。

じっくりと腰を据えて取り組めば足りるではないか。

また、難しい内容、いわゆる抽象的概念についての理解力にも人によって結構な差がある。
ただ、これも、受験教材の発達によってかなり差が縮まったと考えている。
昔の受験参考書は、砂を噛むような書き方で、理解するのが大変なものが多かった。
「本当に分からせる気があるんかいな?」と突っ込むしかなかった。

今は、具体例を挙げて分かりやすく解説する本が増えた。
本は安い。
どうしてもわからなかったら、同じレベルの本を2冊買って読み比べてみよう。
じっくり考えることで、難しかったことも理解できるようになる。

問題を解くスピード、いわゆる事務処理能力の差についても個人差はある。
これについては、繰り返しの回数を上げて対処する。
能力があろうがなかろうが、どっちみち、本気でやろうと思ったら、同じ本を何回も繰り返さざるを得ないのだ。
他の人よりもさらに1回2回と多く繰り返す。
分かりかけた部分についても、さらに上塗りしてダメ押しで叩き潰すのである。

そして、事前準備をしっかりしておこう。
目標を持つときに悲観せず、ポジティブな方がいいが、事前準備の際には、臆病になってしっかり準備した方がいい。
「おぼえていない英単語が出た時も、前後の文脈で推理できるから大丈夫」みたいなアドバイスがある。
こういうのは信頼しちゃダメ。
臆病になって、定番の英単語集の内容をしっかりと覚えておこう。
実際の入試では、長い英文や難しい英文が出る。
そのときに、覚えていない英単語やうろ覚えの英単語の意味について、前後の英文を見ながら推理なんてしていたら、それだけで脳の容量を大きく使ってしまう。
おぼえるべき英単語をばっちり覚えておけば、後は英文の意味や構造を理解することに全力を集中できるではないか。
この差は大きい。

そして、一番大切なのは次の心構え
向上心には、他人よりも上に行こうというタイプの向上心と、自分が持っている能力をできる限り発揮したいという向上心の2つがある。
後者の向上心が大切だ。

それぞれの人に、能力、環境などに差があるのは、ゲームの設定が違うようなものだ。
同じ大学を受けるにしても、能力がものすごく高い人と、能力がそれほどでもない人では、前者の方が有利なのは確かだ。
だけど、それは前者にとってヌルゲーだというだけだ。
同じ大学を受ける場合も、違うゲームをプレイしているようなものである。
なので、能力が高い人との勝負なんて、気にしなくていい。
自分の持てる力をどこまで発揮して戦えるのか、そこをとことん楽しむのだ。

死ぬときに人が後悔するのは、自分の能力のことなんかじゃない。
もっと頑張れたと思った時に後悔するのだ。

だから、能力の差なんてキニシナイ!