オタクと保守

かつての漫画やアニメなどのサブカルリエーターの世界では、リベラルな傾向が強かったですね。

手塚治虫宮崎駿反戦の立場に立っていましたし、ガンダムの基本テーマもそうでした。

それが、今やオタクの世界は保守だらけ。

SNSアニメアイコンの人がリベラル的良識を示すと、希少性を感じるぐらいです。

 

なぜ、アニメオタクは保守だらけになってしまったのか。

現政権の安倍さんや麻生さんが有権者マーケティング戦略的にアニメファンを支持層に取り込んだとか、リベラル側、特にフェミニズムがアニメの自由な創作と相性が悪いのでアニメファンとの関係が悪くなったということがよく指摘されています。

そういう理由もあるでしょう。

それに加えて、コンテンツの演出や作画などの技術そのものが発達しすぎて、テーマ性とコンテンツが切り離されてしまったことも挙げられます。

 

ガンダムあたりまではギリギリ、作り手がアニメや漫画以外の小説や映画から栄養分を得ていました。

昔の作り手からは、分厚い教養を感じさせられたものです。

かつては、日活でポルノ映画を作っている人たちが、ドストエフスキーを愛読していたようなことも珍しくなかったわけですから。

 

それが、マクロス世代やエヴァ世代になると、「アニメの作り手がアニメから学ぶ」傾向が強まりました。

作り手が本をあまり読まなくなり、サブカル世界の中で自己完結するようになりました。

反戦やリベラルな思想そのものを先行するアニメから学ぶわけです。

以前の世代だったら、反戦なりリベラルなりの思想を、読みづらい本を忍耐強く読んで咀嚼しながら身につけたわけです。

しかし、「アニメから学ぶ」世代になると、そういった思想も、感動を盛り上げたり情緒を激しく動かすような高度な演出技術とともに入ってきます。

離乳食のようなものです。

そうなると必然的に、語る内容よりも、語る方法論の方が圧倒的に重要になるわけです。テーマよりもコンテンツのクオリティこそが正義の時代の到来ですね。

 

なので、近年のアニメなどで反戦やリベラル思想が語られていたとしても、作り手が本気でそういった立場を尊重しているわけではない。

作り手がむしろ保守であるケースが増えていると思われます。

 

保守である作り手がなぜ反戦やリベラルを作品中で語るのか。

それは、反戦やリベラル思想を前提とした演出だったり場面だったりが、過去のアニメ作品の中に膨大に蓄積されているからです。

なので、保守であっても、反戦やリベラルをテーマにする方が、作品をずっと作りやすいわけです。

その結果、ド直球の右の作り手が、ビジネスとしてリベラルっぽい作品を量産するという珍現象が普通になります。

 

そのように考えるようになってからは、「このアニメ、リベラルっぽいことを言っていても、コンテンツを盛り上げるためのお作法に過ぎないのではないか?」「演出技法としてのリベラリズムを消費しているだけではないか?」などと、極めて冷めた目でしかアニメを見られなくなってしまいました。